1931年 若松孝往が兵庫県神戸市にて誕生


高知県庁 水防無線完成

創業者である若松孝往は両親兄弟とともに空襲を逃れ疎開先であった岐阜県大垣市の工業高校機械科に入学するも、これからの世の中は弱電が面白くなると予測しNHKの通信教育で弱電を学び機械分野と二足の草鞋を履いた。高校を卒業の後、三菱重工神戸造船所入社。機械関係の仕事に3年間従事するも社風が合わず親戚中の猛反対があったが退社。その後は3年間で弱電関係の企業を5社渡り歩いたが、給料もある時払いのような会社が多く、テレビ・ラジオ・オーディオ、貨物船の船内指令機、学校放送機器などを部品から集めて自作し生計を立てる。この頃、病院に入院した時期がありそれで看護婦の千代子と出会い恋に落ちたようである。当時のテレビやAV機器はお金持ちしか買えず、この人と結婚したら幸せになると千代子は思ったそうだ。


自作ラジオ

当社が現在行っている仕事に繋がって行くことになったのは、上記のあと大阪無線電業所という20人足らずの個人企業で働くことになったためである。そこに7年間もいることになったのは、Mさんという素晴らしいリーダー(5年後に他界されてしまう)がおられたことと、仕事が面白かったためである。仕事は最初船舶無線が主力であったが、次第に陸上無線も手掛け九州に来る前には陸上無線のウエイトが高くなっていた。


自作アンプ

防災行政無線の先駆けで当時は水防無線と呼ばれていた。大阪時代の最後の仕事になったのが高知県庁の水防無線網で、昭和37年から39年にわたり、ほぼ一人で現地の業者を使いながら完成させた。短い時で2ケ月、時には半年を超える出張も珍しいものではなかった。
昭和39年4月高知県の仕事を無事完成させた後に、水防無線網のエキスパートを探していると老舗通信機器メーカー様よりオファーがあり、自然の美しい九州で創業することになる。